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ニューヨーク日記:

オーストリア学派コロキアムでの研究発表

Essay on my presentation at Austrian Colloquium

橋本努



今回のニューヨーク滞在において最大の正念場となったのは、何と言っても、オーストリア学派コロキアムにおける私の研究発表である。この発表の準備のために費やされた生活は、まさに悪戦苦闘の日々であった。

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ニューヨーク大学の経済学部では、毎週月曜日の二時から一時間半にわたって、オーストリア学派のコロキアムが開催される。このコロキアムには、ニューヨークに住むオーストリア学派の研究者たちが出席するほか、数名の大学院生も出席する。(コロキアムは大学院の単位として認定されている。)コロキアムでの発表者は、自由な応募で募られ、発表者は遠方から来ることも多い。たとえばオーストラリアやカナダからも、研究者たちは発表に来る。発表内容の傾向から言えば、理論的・哲学的な研究を発表する人は総じてアメリカ以外に多く、アメリカでは自由主義の政治思想的基礎や企業家精神に関する経営学的研究をしている人たちが多いようである。いずれにせよこのコロキアムは、オーストリア学派の今後の発展を担う一つの拠点となっている。

20011月、ニューヨーク大学における第二学期(春学期)が始まると、私はこの研究会の座長であるマリオ・リッツォ教授に、自分の研究発表をしたいという旨を伝えた。そして当初は、私の発表を四月に予定してもらうことができた。しかし三月になって、フランスから客員研究員として滞在しているニール氏から、彼の発表日と私の発表日をチェンジしてほしいという相談をもちかけられた。私は迷ったあげく、結局、彼の発表日である三月までに自分の原稿を準備することはできないから、彼に私の発表日を譲り、私は2001年の秋学期まで発表を延期してもらうことにした。彼の滞在は五月までであるが、私の滞在はまだ一年以上あったので、結局そのときは、ニール氏に発表のチャンスを譲ったのである。そして20011022日、ようやく私の発表日が訪れることになった。

私が発表した論文の内容は、経済活動における「均衡感覚」の性質について考察したものであり、そしてその理論的・哲学的な知見を、オーストリア学派における支配的な学説であるカーズナーの企業家精神理論と比較したものであった。「市場調整における二つの見解」というのがそのタイトルである。しかしこの論文を英語で書き上げるまでには、それなりの険しい道のりがあった。とくに英語で説得的かつ流暢に書くことには、相当な時間が費やされたように思う。私はニューヨークに来る前に、なるほど英語の論文を一本書いてはいたが、しかしそれは以前に書いた日本語の論文をそのまま英語に訳しただけのものであり、またレスリー・ウエッブ氏の入念な添削がなければ完成しなかったであろう。だから英作文に関しては、日本ではまったく自信を持っていなかった。しかし今回はアメリカに滞在する以上、独力ですぐれた英文を書けるようにならなければならない。これが最も重要な学問トレーニングになることは、当初から十分に覚悟していた。

私がニューヨークに来る直前にまで話を戻そう。2000年の6月である。私は当時、西田幾多郎の哲学にヒントを得て、「市場における均衡感覚について」という草稿を日本語で書いていた。そしてそれは、北海道大学での私的な研究会で一度発表されたが、そのときはまだ荒削りの論稿にすぎず、内容は冒険的であるにしても、詰めて考えなければならない論点は多く残されていた。私はこの論稿をもとに、ニューヨークに渡ってから新たな考察を発展させてみようと思案していた。これはいわば「種」のような論稿であり、渡米前にその発芽段階まで温めておいたのであった。そして2000年七月から私のニューヨーク滞在がはじまった。

 ニューヨークに来た当初は、とにかくオーストリア学派の最新の文献をフォローすること、またコロキアムでの議論についていくことが精一杯であった。しかし他方では、少しずつでも自分の研究に着手するために、その哲学的基礎となる著作群、とくに共通感覚論を論じたスコットランド啓蒙期のトーマス・リードや、アメリカのプラグマティストで「批判的共通感覚論」を論じたチャールズ・サンダー・パースの本などを読み進めていった。そしてようやく2000年の秋学期が終わる12月頃から、私は自分の論文「均衡感覚論」を英語で書き始めることにした。しかしその冬は体調がすぐれず、精神的にもある種の適応不全のような感覚に襲われ、英語で論文を書きつづけながらも、なかなか書きあがらないことに焦燥感を感じていたように思う。

おそらく多くの研究者たちが同じような経験をしているのであろうが、英語論文の執筆が難しいことには、二つの理由がある。一つには、日本語と英語の表現上のギャップがあって、説得するためのレトリック表現をなかなか使いこなせないということがある。私の場合には、基本的には日常用語を用いて論じるので、説得のためのレトリック表現はとても重要である。たとえば、 “It is obvious that…” という表現を一つとっても、これをどういう場面で用いることが効果的なのか、という問題を抱えてしまう。日本語で考えてからそれを英語に置き換えるのでは、文章全体に説得力がなくなる。しかし英語で的確なレトリックを使って思考することには、まだ思考力上の無理がある。慣れていない思考方法を用いるときには、どうしてもプリミティブなレベルにとどまってしまうのだ。もう一つには、想定される読者が変わると、論じる内容を変更しなければならないということがある。とくに私が参加する研究会では、オーストリア学派の発展を志向した論文を発表しなければならない。これは日本では想定されなかった読者層である。日本では、オーストリア学派の発展を他の文脈につなげて論じなければさほど意味をなさないという文脈があったが、ここではすべての予備知識を背景に退かせて、ストレートに議論をぶつけなければならない。これは相当な覚悟を必要とすることであった。

 こうした問題のほかに、たんなる文法上の細かいミスをどう克服するか、表現力をどう鍛えるか、そして、コロキアムにおけるプレゼンテーションをどうするか、という問題があった。そこで私は2000年二月から四月までの三か月間、ニューヨーク大学における語学学校に通い、ライティングと会話のコースを受講することに専念した。この時期は週四回の授業に追われ、語学に相当な時間を費やしたように思う。語学学校の効用については、別のエッセイで細かく紹介することにしたいが、とにかく語学の壁は厚く、常にあせりながら勉強している状態が続いた。

 そうしたなかで、私は発表原稿の第一稿を二月に書き上げ、これをマリオ・リッツォとサンフォード・イケダの両教授に添削してもらうことができた。私の書き上げた最初の原稿は、内容的な問題よりもまず文法的な問題が多く、この二人には相当な迷惑をかけたと思う。振り返ってみれば、両教授には、私の論文添削のために忙しい時間をよく割いてもらうことができた。改めて感謝したい。二人から文法のチェックを受けた原稿を受け取ると、今度はそれをもとに加筆・修正を繰り返した。私の英作文上の問題は、日本語で思考したものをあたかも英語で思考したかのように表現するために、ぎこちない表現力に陥り、それが今度は自分の思考力そのものを殺いでしまうということにあった。複雑に考えたことを単純化し、論理の順番を何度も変更していくというプロセスのなかで、いかにレトリックの意義が重要であるかを痛感した。私は結局この論稿を、2000年の五月まで推敲しつづけた。

 そして七月になって、サンフォード・イケダ氏とお会いしたときに、私はその修正稿に内容上のコメントをもらえないかと彼に尋ねた。そして九月の初めに、私は彼から丁寧なコメントをもらうことができた。そのコメントはしかし、一面では鋭い指摘とアドバイスがあるものの、他面ではカーズナーの視点に基づいて私の理論を誤読しており、私はそのとき、何かいやな予感がした。つまり、もしかすると私の理論的考察は、オーストリア学派研究会のメンバーにとって「馴染み深くない」という理由で却下されてしまうのではないか、という不安がそれである。新しい理論的考察を展開する場合には、やはり既存の支配的な理論と対比・対照して説明したほうが理解されやすい。私は研究発表において、自分の理論とカーズナーの理論を比較したほうがよいのではないかと考えた。とくに英語で発表する場合には、理論の繊細な部分は伝わらないだろうから、対照と比較の形式を用いて、単純化して発表したほうがよいだろう。そう思い立ってから私は、急いで別の論稿を書きはじめた。「市場調整に関する二つの見解」と題するこの論文を私は、奇しくも911日のテロ事件が起きたその日から書き始めて、テロリズムの不安に付きまとわれながらも、約一週間で集中して書き上げた。このころには、私の作文力も予想以上に向上しており、自分の思考に自然な形で英語表現が出てくるようになっていた。とにかくある種の興奮状態で書いていたので、このときは自分の能力を出し切るようなものが書けたように思う。そして最終的には、この原稿をコロキアムで発表する見通しが立った。

 この第二の論稿は、ある意味で大風呂敷を広げたものであり、細部の記述よりも全体の構図とストーリーをダイナミックにみせるような、鳥瞰的なスタイルをとっている。内容としては、カーズナー的な市場プロセスと私の擬似ハイエク的な市場プロセスの比較からはじまり、次に、カーズナーの理論的想定がもつ諸問題を指摘しつつその克服を論じ、第三に、私の理論がもつアドバンティージを論じ、第四に、この独自の観点から今度はカーズナーの市場プロセスを補強するような論点を提供する。その際、ブキャナン=­ヴァンバーグのカーズナー批判に対しては反批判を加えつつ、オーストリア学派のミドル・グラウンド論を再規定するための論拠を提出する。そして最後に、議論全体の規範的含意を明らかにする。およそ以上のような構成でもって、私は自分の理論がオーストリア学派の研究者たちにとって意義深いことを示そうとしたのであった。

 その際、もっとも論争的な論点は、私がキー・コンセプトとして掲げた「均衡感覚」なるものの性質についてであった。均衡感覚という、なにか存在するようで存在しないような、うまく捉えがたい概念を私は議論の中心に据えている。この概念は、ある意味で日常生活における人々の直観に根ざしてはいるが、論理的に考えようとするとすり抜けてしまうような性質をもっている。私は最初に用意した論稿「均衡感覚論」において、この概念の性質をさまざまな角度から論じてみたが、しかし実際に用意した発表原稿「市場調整における二つの見解」では、この概念を用いて何を批判し何を擁護することができるのか、というプラグマティックな側面を強調することにした。そしてこの狙いは、ある意味で正しかったように思う。日本とは異なり、哲学的な記述はあまり前面に出さないほうがよいというムードが、この研究会にはあったからである。

 この原稿は発表日の約10日前までに仕上げられ、一週間前には研究会のメンバーに配布された。原稿を書き上げてからは、今度はどうやってプレゼンテーションをするのかという問題に取り組んだ。何せコロキアムでは、英語で30分の発表をして、さらに一時間の質疑応答をこなすわけであるから、プレゼンテーション用の原稿を準備して、さらに議論するための語学力を磨いておかなければならない。そこで私は、口頭発表のための原稿を用意しつつ、OHP(オーバーヘッド・プロジェクター)の資料を作ることに取り掛かった。恥ずかしながら私は、日本ではまったく使ったことのないOHPをニューヨークで使うことになった。おそらく日本では、学会報告にしても、OHPのニーズはまだ少ない。私のこれまでの経験から言えば、日本における学問的コミュニケーションそれ自体が、濃密な背景的知識の共有によってスムーズに進むので、OHPを使う必要がない。OHPは繊細な内容を犠牲にしてしまう、というのが私のこれまでの評価であった。しかし濃密な背景的知識を共有しないオーディエンスの前では、OHPは大きな効果を発揮する。単純な事柄に焦点を集中させて、その問題に対して各自がいろいろな意見を加えていくという、まったくもってストレートでバラエティな議論が可能になるのである。

 OHPを用いる際に私は、ある新聞記事とそこに掲載されたデータを用意した。テロ事件から一週間後に再開されたニューヨーク株式市場の初日の動きについてである。フィナンシャル・タイムズ紙は、再開初日のマーケットがパニックに陥らなかったことについて、およそ次のように評価する記事を載せた。「人々は分別のある反応をした。誰もパニックから儲けようとは企てなかった。人々は市場が向かう方向の感覚を得ようとしていた。」云々。私はこの記事を読んだとき、この記述はまさに私の均衡感覚論を表現しているのだと直観した。ここで、「分別のある」とは英語で「センシブル(sensible)」、方向の感覚とは「センス・オブ・ディレクション(a sense of direction)」、である。この記事にもとづけば、市場がパニックに陥らなかったことと、人々が「感覚(sense)」や「分別(sensibleness)」をもつことには、意味論的な対比関係がある。私が「均衡感覚」という言葉で示そうとしたことは、まさにここでいう人々の「感覚」や「分別」に他ならない。私はこの記事の内容を、当日の研究発表で強調することにした。

 こうして発表前の約一週間は、とにかく発表内容の用意と練習に費やされた。リハーサルを自宅で三回ほどして、そのつど発表内容の順番を変更したり、内容を捨象したり追加したりした。また「英語の議論によく使う表現」という本を読み、いくつかのフレーズを暗唱したりもした。そしていよいよ当日である。

当日はとてもよい秋晴れの天気にめぐまれた。参加者たちはまず、12時頃から近くのレストラン「おきなわ」でランチを共にする。(この日はたまたま日本料理だった。)ランチの後は、いつもであればコーヒーを飲みに行くところだが、私は自分の発表を準備するために、この日はヤンバック・チェ教授と二人で先に大学へ戻ることにした。ヤンバック氏はそのとき、カーズナーの私的な生活について話してくれた。氏によると、カーズナーには12人の子供たちがいて、3LDKのアパートに暮らしているらしい。もっとも最後の子供が生まれるころには最初の子供はすでに独立していただろう。しかしそれでも、一部屋に三人以上の密集度にはなる。カーズナーは書斎を自宅にもたず、もっぱら研究室で研究を進めていたというから驚きだ。しかもその世代にふさわしく、カーズナーは、ワープロではなくタイプライターを最後まで愛用していた。

いよいよ二時からの研究会。二時よりも五分くらい前のことであろうか、私が会議室前の廊下で待っていると、イスラエル・カーズナー教授が現れた。ユダヤ人に典型的な黒い背広と白いシャツ、それに黒い帽子を身に付けて、いかにも威厳ある振舞いをみせて現れた。「えっ、今日はカーズナーが参加する!」私は心の中で叫んだ。というのも、実はカーズナー教授は、この四月に退官され、九月以降の研究会にはもはや出席されていなかったからである。カーズナー教授は退官前に、次のようなショッキングな宣言をしていた。すなわち、退官後にはすべての経済学研究を終了し、今後は居住区であるブルックリンのユダヤ人コミュニティにおいて、ユダヤ教の「ラビ」(ヘブライ語で「我が主」という意味。ユダヤ教の教師の敬称)として生きるということ、そしてもっぱらユダヤ教の研究に専念するというのである。こうしたショッキングな宣言を私はすでに知らされていたので、もはやすでにカーズナーは完全に宗教の世界に入っているのだとばかり思っていた。しかし、この日はそうではなかった。

今回のカーズナーの出席は、研究会のメンバーが特に招いたわけではないので、おそらくカーズナー自身の意思に基づくものであろう。私はとてもうれしく思うと同時に、しかし他方ではまったく緊張してしまった。カーズナー教授はとても論争的な態度をとることで有名である。カーズナーはしばしば、自分と見解を異にする研究発表に対しては、「私は君の論文を三回読んだが、まったく理解できなかった」というコメントをしてから論争をはじめる。そしてこの態度は、どんなにカーズナーと私的に親しい研究者に対しても向けられるのであるから、傍観者的に見ればエキサイティングであるとしても、実際に批判されたら、たまったものではない。そして今回は、私の発表なのである。私の発表は、カーズナーの理論に対する批判を含んでいるから、とにかく状況はまずい。しかしカーズナーは、今回ばかりは事前に論文を読んでいなかったので、私はこのカーズナー教授のいつもの批判を免れることができた。

実際にカーズナーから受け取ったコメントは、理論的にとても重要な示唆を含んでいた。それは均衡価格と企業家的発見の関係について、私のカーズナー理解を一部正すようなものであった。このコメントをもとに私は、私のカーズナー理解を少し考え直すことになったが、その考察はしかし、とても重要な問題に帰着した。というのも、市場における見えざる手をどう説明するかをめぐって、複数の見解を掘り下げて検討しなければならないことになったのである。これについては、別の考察を用意しなければならないだろう。とにかく私はカーズナーのコメントによって、カーズナー理論に対する単純な理解を避けなければならないことが分かった。この論点は、日本における既存のカーズナー理解に対しても、おそらく修正を迫ることになるはずである。なお同じ問題は、当日の研究会で別の研究者たちからも指摘され、私は標準的なカーズナー解釈が私の理解と異なることをはじめて知った。この点は、私にとってまったく目から鱗であった。

 カーズナー理論の解釈に関する問題とは別に、当日の発表と質疑応答では、さまざまな論点が挙げられ、私は、そのすべてに的確な応答をできたわけではないとしても、何とかすべての質問を理解し、できる範囲で応答したように思う。研究会の最後に大きな拍手をもらったときには、この発表をして本当によい経験をしたと思った。

研究会が終わると、私を含めて五人のメンバーは喫茶店に行き、議論はさらに続いた。ロジャー・コップル氏はそこで、なぜ私のカーズナー解釈が間違っているのかについて、簡単な需要供給曲線を書いて説明してくれた。私はその説明を聞いて、一方では、なんて単純なことに私は気づかなかったのかと思ったが、しかし他方では、もしこの説明を受け入れると、カーズナー理論における「均衡への傾向」という議論はまったく危ういものになってしまうだろうと予感した。今後、考察をすすめなければならないのは、裁定者としての企業家が発見する販売価格の意味論的性質についてである。カーズナーの枠組みにおいては、その価格は均衡価格ではないにしても、均衡化をもたらす価格として意味づけられるか、あるいは少なくとも、均衡化を促進する価格として意味づけられることになるはずだが、当事者はこのことに気づく必要はない。しかし私が思うに、この均衡化への傾向は、たんに「裁定行動の意図せざる結果」なのではなく、意味論的には「裁定行動の直接の結果」になるはずだ。私はメンバーたちとの議論を経て、このことについてもっと説得力のある議論を展開しなければならないと感じた。

 研究会では、他にも考察しなければならない問題が多く提出された。たとえば「感覚」とは何か、「根源的無知」の克服は「感覚」によって可能なのではないか、といった原理的な問題をマリオ・リッツォは投げかけた。デビッド・ハーパーは、私の理論がむしろカーズナーの現実主義的な拡張として位置づけられるべきだとコメントした。サンフォード・イケダは、通常の市場参加者たちの行動について私の説明を補うような、ある意味で私よりももっとすぐれた説明をした。この他にもいろいろあるが、私は研究会を通じていろいろな宿題を得たように思う。いずれにせよこの研究発表は、私にとって一生忘れられない経験になるであろう。そして私は、今回のニューヨーク滞在における一つの目的を達成したように思う。もちろん、私の発表論文も語学力もまだ不完全であるから、これを一つのスタート地点として考えなければならない。この分野の研究に英語で貢献することを真剣に考えるならば、まだすべてが始まったばかりにすぎない。(2001/10/28